アメリカでの主婦生活を淡々と記録するブログ

アメリカ生活の備忘録。育児の思い出記録が中心です。慣れない環境で頑張って生活していますが、喉元過ぎれば自分でも「何を頑張ってきたか」忘れてしまうので、アメリカで頑張って来たことや悩み事、楽しかった思い出の備忘録として書いています。

Smithonian American History Museum① ”Many Voices,One Nation”の展示を見ました

Smithsonian American History Museumはアメリカという国を知るのにぴったりで、私もこれまでに何度か通っています。

特に好きだった展示について、6つの記録を残します。
(このほかにも見どころはたくさんあります!)

  • Many Voices,One Nation ←今回はコレ
  • ②American Democracy
  • ③The Price of Freedom
  • ④The American Presidency
  • ⑤The First Ladies
  • ⑥The Star-Spangled Banner

<目次>

 

1.Many Voices, One Nation

こちらは2階西部にある常設展示で、アメリカ社会がいかに多様で、世界中からの移民を包摂してきたかがよく表現されています。ウェブ上にも解説があります。

wayback.archive-it.org

★1492年~1776年:新大陸への移住

15世紀に新大陸が発見されてから18世紀まで、移民はほぼ制限されていない状態だったため、様々な国から移民が入植し、それぞれの拠点を構築しました。

 

<スペイン@ニューメキシコ

16世紀半ば、スペインニューメキシコ州周辺に入植します。
元々金や銀を求めて新大陸に来たものの、サンタフェ周辺で灌漑農業を行う先住民を発見し、彼らにカトリックを布教することとなりました。

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<オランダ@ニューアムステルダム

17世紀半ば、オランダ西インド会社が、毛皮を求めてニューアムステルダム(現ニューヨーク)周辺に、多数のヨーロッパ系人種と共に入植します。

1664年にオランダとイギリスが争い、この地はイギリスのものとなり、その時に「ニューヨーク」と町の名前が改称されます。

アメリカ最初の奴隷はオランダ人から譲り受けた20人の黒人奴隷である、と言われていますが、この西インド会社では黒人奴隷を所有しており、農業などの労働に従事させられたそうです。

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<フランス@ケベックモントリオール

17世紀初頭、ケベックモントリオール(現カナダ)にはフランス人が入植し、毛皮貿易を行っていたようです。f:id:nazekadcniimasu:20240109234053j:image

 

<イギリス@サウスカロライナ

サウスカロライナではイギリス系移民が西インド会社と同様の形態の会社を運営し、イギリス本国へ農産品を送ろうと試みました。

イギリス本国とは気候が異なり、農業はうまくいかなかったものの、アフリカから来た黒人奴隷から習う形で米作技術を定着させたそうです。

写真の女性は、米プランテーション農家のご婦人だそうです。
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<イギリス@ペンシルバニア

独立戦争期には最大の都市であったペンシルバニアは、元はイギリス系のクエーカー教徒が入植した場所だったようです。

宗教的に非常に寛容で、ドイツ系アーミッシュなど様々な文化的背景の者と共存した結果、とても大きな都市になったとのこと。

独立戦争まではクエーカー教徒が州議会の実権を持っていたようです。
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★1776年~1900年:拡大する国家の人口

独立戦争以降ひとつの国家となったアメリカ合衆国。増え続ける移民と、併合により増えていく領土。いかに国としての一体性を保ち、異なる民族が調和していけるのか?という問いを抱えながら、国家として成長してゆきます。

 

アンクル・サム

1812年米英戦争頃から広まり、南北戦争では北軍のシンボルとして使用されたアンクル・サムは、戦後はアメリカのシンボルとして度々活用されました。

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<1840~1860年、東欧・南欧移民>

この20年の間に、450万人のヨーロッパ系移民が入植したが、多くはドイツ・アイルランドなどからきていた。
ドイツ系移民は中西部に移り住み、ウィスコンシンミズーリオハイオで「German Triangle」を形成した。

 

1830年 インディアンの強制移住

1830年アメリカ政府が制定した強制移住法により、インディアンは先祖代々の東海岸の土地を離れ、ミシシッピ川以西に移り住むことになりました。

 

<1848年 メキシコからカリフォルニアを併合>

アメリカ・メキシコ戦争に勝利して、メキシコ領土だったカリフォルニアを手に入れました。当時、併合されたてのカリフォルニアには、アメリカの法律が平等に適応されたわけではなかったようです。

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<1882年 排華移民法

ゴールド・ラッシュを求めてたくさんの中華系移民が入国していたところ、雇用の奪い合いとなり1882年に排華移民法が制定され、中華系移民を制限することになりました。

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中国人排斥を描いた陶器。弁髪の中国人が攻撃されています。

<19世紀末 ハワイ王国等の併合>

19世紀末、アメリカ大陸を超えてハワイ、グアム、フィリピン、プエルトリコなどを併合しました。これらの島々はアメリカにとって軍事的に重要な拠点でした。

ハワイ王国では白人が砂糖とパイナップルのプランテーション農園を設立し、多くのアジア移民が低賃金労働者として連れてこられました。ハワイはこの機会で、自給自足生活から現金経済と移行しました。

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★1900年~1965年:コミュニティの創造(ロスとシカゴ)

この時代は、工業化により人口が都市に吸い寄せられ、コミュニティを形成していった時期になります。大都市の例として、ロスとシカゴを題材に、当時のアメリカにてどのように多民族国家・都市が形成されていったのか、解説がありました。

シカゴは1890年に100万人を超える都市となりましたが、その8割は移民でした。
市内には様々な文化を持つ拠点が形成されていました。

 

<メキシカンコミュニティ@pilsen>

例えばpilsenという町では、メキシカンコミュニティが形成されていたそうです。

 

<中国コミュニティ@Chicago's souseside>

中国人移民については、1882年に排華移民法で入国が制限されていましたが、アメリカ人との子供だけは例外的に入国が許されていたため、アメリカ人の子供であることを示す書類を不正に購入して入国する「紙息子(Paper son)」と呼ばれる不法移民がいました。

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スウェーデンコミュニティ@Lakeview>

Lakeviewというエリアには、スウェーデンのコミュニティが形成されていました。

 

<アフリカ系コミュニティ@Bronzeville>

Bronzevilleという町には黒人が25万人移住してきて、白人たちが近隣の街に移動した結果、「ブラックベルト」というコミュニティができたとのことです。

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<都市と貧困>

1830年代初頭から、シカゴには大量の移民が流入し、貧困の中新たな暮らしを立ち上げた。福祉政策の基礎を気づいたジェーン・アダムスは、ハル・ハウスというSettlement Houseを創始し、ノーベル賞を受賞しました。

 

ロスアンゼルス

1781年の創立以来、ロスはスペイン・メキシコ・アメリカの統治下を経て、1930年代には既に大都市となっていました。発祥の地であるLa plazaは、初めは44人のインディアン・アフリカ人・ヨーロッパ人が興した街だが、1920年代にはイタリア・中国・フランス・日本・ヒスパニック…と多人種の集まるエリアとなりました。

 

日系人強制収容>

真珠湾攻撃が起こった時に、日系人移民は大統領令により強制収容所に送還されました。大統領令の複製と、収容所内の管理番号のピンが展示されています。

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★1965年~2000年:アメリカとは何か、議論は続く

1965年移民法の制定後、アメリカでは再び移民が増えます。ノースカロライナ州からアーカンソー州にかけて、そして南はアラバマ州まで、これらの地域のようにに、かつて移民が少なく多様性が乏しかったエリアにも、移民が進出してゆきました

 

<難民によるサッカーチーム>

ジョージア州では、難民(アフガニスタンボスニアブルンジコンゴイラクなど)たちが結成したサッカーチームに関する展示がありました。地元住民は彼らを歓迎せず、公園の使用を拒否したりしたそうです。
コーチももともとヨルダンから帰化した元難民で、フィールドの使用権を得られるよう交渉にあたったとのことでした。

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<メキシコ国境の街>

カリフォルニア・ニューメキシコアリゾナテキサス州にわたるメキシコ国境付近には、2000マイルを超える豊かな商業地域が発達しています。

1965年の移民法の制定以降、移民手続が明確化されると、この地を超えて不法入国する者が急増し、その30年後に北米自由貿易協定NAFTA)が制定されて以降は、国境を越えた経済活動が活発化したこともあり、メキシコからの入国が一層増えているとのことです。この国境付近ではR&Bサルサなど豊かな多国籍文化が花開きました。

 

<国境を越えて働く>

移民が母国へ送金することで、アメリカ経済は国内にとどまらず世界経済を潤していることや、1965年移民法以降はO-1ビザという熟練労働者向けのビザが認められたことにより、世界各国から医師やエンジニア等が移民としてアメリカに入国し、技術の発展を支えていることの解説がありました。

 

★交渉の場所、アメリ

建国以来、自由・包摂・平等を目指してきたアメリカでは、これらを勝ち取るための交渉を積み重ねてきました。

 

<自由のための交渉>

自由の国として立ち上がったアメリカですが、それと矛盾する奴隷制度を抱えていたため、これを争点とする南北戦争が起こりました。

 

<包摂のための交渉>

1882年に制定された排華移民法は、特定の人種の移民を排除する初めての法律で、1948年に廃止されました。

 

<平等のための交渉>

20世紀に入っても、黒人は社会のあらゆる場面で隔離されていましたが、第二次世界大戦後に、完全な公民権を求める運動がおこりました(公民権運動)

アーカンソー州の、黒人用の学校の卒業アルバム(Year Book)の展示があります。

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1954年のブラウン対教育委員会判決、1964年の公民権法により、人種隔離をやめて社会統合措置をとることが方針として示されました。
多くの国民は必ずしもこれに従わず、ボストンの学校で人種統合が行われたときに、その反発で破壊されたスクールバスの窓が展示されていました。

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<教育>

多民族国家において、公立学校は国民の共通文化を育てる役割を担いました。
教室に国旗、初代大統領ジョージ・ワシントン、鷲のシンボルが掲げられ、子供達は親の使用言語にかかわらず英語を習いました。
少なくない家庭がこれに反発し、カトリックユダヤ教、中国などの独自文化を教える私立学校を選択しました。

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2.2階西部周辺①George Washington Sculpture

こちらの展示に行く直前に、George Washingtonの大きな像があります。

これは1832年ジョージ・ワシントン生誕100周年を記念して製作され、1908年まで国会議事堂に飾られていたものだそうです。

権力(剣)を自ら民衆に捧げる姿を示しており、戦争と平和の指導者であったことを表現しているそうです。

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3.2階西部周辺②Greensboro Lunch Counter

さらに奥には、有名なGreensboro Lunch Counterのブースがあります。

(実際に店舗が閉店する際に寄贈されたものだそうです!)

1960年、まだ人種隔離が合法だった時代に、グリーンズボロに住む4人の黒人大学生が、白人専用のサービスカウンターに座るデモ行動を行いました。この行動はアメリカ全土に広まり、最終的には公民権法の成立までつながってゆく、アメリカの歴史に残る出来事となりました。