前記事に続き、国立アフリカ系アメリカ人博物館(National Museum of African American History and culture)を見に行った際の記録です。
目玉の展示は下記3点ですが、時間に限りがあったため前半2点のみ見てきました。
- Slavery &Freedom(奴隷と自由)1400-1877
- The Era of Segregation(人種隔離の時代)1877-1968 ←今回はココ
- A Changing America(変わりゆくアメリカ)1968以降
第二部の「The Era of Segregation」は、「人が人に対し、こんなにも暴力的になれるのか」と衝撃を受ける展示が多く、ジムクロウ体制下のアメリカ南部エリアにおける、人種的対立の激しさを感じるものになっています。
<目次>
- 1.分離の時代
- 2.All Black City
- 3.The Tsukegee Airmen
- 4.偏見の入ったデフォルメ
- 5.1916年:集団による暴力 ジェシー・ワシントン事件の例
- 6.1915年:KKK(クー・クラックス・クラン)
- 7.1918年:リンチとの闘い:メアリー・ターナーさんの例
- 8.1923年:ローズウッドの虐殺
- 9.1943年:デトロイト人種暴動
- 10.1944年:ルーシー・テイラーの告発
- 11.1946年:ジョン・C・ジョーンズの死
- 12.1951年:ムーア夫妻爆殺事件
- 13.ジム・クロウ体制下の街並み
- 14.1954年:ブラウン対教育委員会判決
- 15.1955年:ローザ・パークス逮捕
- 16.1955年:エメット・ティル少年殺人事件
- 17.1900年~1956年:バス乗車ボイコット運動
- 18.1957年:リトルロック高校の人種共学運動
- 19.1960年:分離統合運動 ルビー・ブリッジスの初登校
- 20 .1960年:Sit in(座り込み運動)
- 21.1961年:自由のための乗車運動
- 22.1963年:ワシントン大行進・キング牧師”I have a dream”演説
- 23.1964年・1965年:公民権法、投票権法の制定
1.分離の時代
南北戦争後、1870年までに憲法が修正され、奴隷解放、黒人への市民権と投票権の付与が規定されます。南部諸州もこれら憲法修正を承認し、合衆国に復帰しますが、1877年以降に北部駐留が終了して以降、あらゆる形で南部の黒人投票権は奪われ、再び黒人差別が横行してゆきます。(1877年時点で、全米の黒人の9割が南部に住んでいました。)
ジョンソン大統領時代に公民権法が制定されるまでこの戦いが続きますが、アフリカ系アメリカ人博物館2つ目の展示では、この時代に焦点を充てられていました。
ウェブ上にも簡単な解説があります。
2.All Black City
南北戦争後に解放された400万人の奴隷は、自由身分となり、独自のコミュニティを形成して暮らしていました。この集住コミュニティはジム・クロウ体制下で差別から身を守ることにも効果があったと言われています。全米各地でそのような都市があり、各地の看板が展示されていました。
3.The Tsukegee Airmen
当時、黒人は能力的に乏しく、飛行訓練を受けるのにふさわしくないと言われていたことに対し、黒人たちが自ら飛行訓練を受けさせてもらうよう要望し、黒人たちによる優秀な航空部隊が組成された話の紹介がありました。動画が併設されてます。
4.偏見の入ったデフォルメ
黒人をキャラクター等で表現する時に、愚鈍で愛嬌のある、見下されたイメージが使用されることが長く続きました。
5.1916年:集団による暴力 ジェシー・ワシントン事件の例
黒人はリンチ(私刑)による非合法な集団暴行の被害に合うことが多かったようで、
、ここではジェシー・ワシントン事件と、いくつかの事件について展示されていました。これは、テキサス州の都市ウェーコにて、白人農園主の夫人をレイプして殺した17歳の小作人ジェシー・ワシントンが、有罪を認めた後に裁判所から引きずり出され、10000人以上の市民の見る前で火あぶりにされた事件です。
ワシントンは指や性器を切り取られ、何度も炎に上げ下ろしして長く苦しむように殺され、群衆は焼け焦げた体をお土産に持ち帰ったとのことでした。
6.1915年:KKK(クー・クラックス・クラン)
南北戦争後に、解放黒人からの白人自警団として発祥したKKKは、1872年に法で取り締まられその活動を停止していましたが、第一次世界大戦期以降再び活動を再開したことの紹介がありました。
7.1918年:リンチとの闘い:メアリー・ターナーさんの例
再び「リンチ」との闘いの事例として、21歳女性メアリー・ターナーさんの事件について展示されていました。近所で白人の農園主が殺害されたことで、メアリーさんの夫が犯人の疑いをかけられリンチにあい、死亡します。メアリーさんは夫へのリンチを非難したことで、同様にリンチにあい死亡したとのことでした。(展示にはありませんでしたが、逆さづりにされ、生きたまま火をつけられ、腹から胎児を切り出され、出された胎児は踏みつけられたという記事をみたことがあります。)
8.1923年:ローズウッドの虐殺
フロリダ南部の黒人街ローズウッドは、白人からの襲撃・リンチで消滅した集落です。ある白人女性が「黒人にレイプされた」と申告したことをきっかけに、白人の集団が街を襲撃し、正確な死者数は把握されていないとのことです。ローズウッドの黒人女性が着用していた衣服が残っており、展示されていました。
9.1943年:デトロイト人種暴動
1943年のミシガン州デトロイトで発生した大規模な人種暴動について展示がありました。このときデトロイトでは自動車産業が発達していましたが、それが戦争産業に切り替わった時期のこと。大きな労働需要から、約40万人の黒人が移動してきており、仕事や住宅をもとめて従来の白人住民との間に緊張関係がありました。
最初は若者グループの対立から、「白人が黒人母子を川に投げ込んだ」「黒人が白人をレイプした」等の根拠のない噂の広まりにより大規模な暴動に発展し、最終的には34人が(うち24人が黒人)死亡し、200万ドル相当の財産を失う被害となりました。フランクリン・ルーズベルト大統領は鎮圧のために連邦軍を投入しています。
10.1944年:ルーシー・テイラーの告発
24歳の黒人女性ルーシー・テイラーが白人からの集団レイプを告発した話の紹介がありました。保安官の対応が遅く、犯人グループのうち1人は犯行を自白したにも関わらず、裁判では全員白人の陪審員が告訴を却下したそうです。当時、黒人が白人を告発することは大変勇気のいることで、ルーシーさんの家族も本件が原因で、自宅に放火され住んでいた町を離れています。
11.1946年:ジョン・C・ジョーンズの死
ルイジアナ州にて、退役軍人のジョーンズといとこのアルバートが、隣の庭への不法侵入で逮捕され、逮捕後に釈放されたにもかかわらず、直後に暴行を加えられ、そのまま亡くなった事件です。
NAACP(全米黒人地位向上委)が、ジョーンズに暴行を加えた者を訴えますが、全員白人の陪審員により、無罪になったということでした。
12.1951年:ムーア夫妻爆殺事件
NAACP(全米黒人地位向上委員会)フロリダ支部の事務局長であったハリー・T・ムーアは、フロリダ南部における黒人の有権者登録、白人・黒人の教師の賃金の統一化、黒人に対する不当な有罪判決など様々な人種問題に取り組みましたが、夫人とともにKKKにより自宅で爆殺されました。これはNAACP幹部の初めての暗殺事件となりました。
13.ジム・クロウ体制下の街並み
人種別のエリアを示す看板の展示がありました。ジムクロウ体制下で、当然のように、人種ごとに空間が分離されていたことがわかります。
14.1954年:ブラウン対教育委員会判決
70年前のプレッシー対ファーガソン判決以来の「分離すれども平等」を覆し、公立小学校の人種分離は違憲であると示した画期的な判決です。
当時、カンザス州の黒人オリバー・ブラウン氏が、自宅から7ブロック先に白人学校があるにもかかわらず、1.5km先の黒人学校にしか通えないことに対し、教育の機会の平等を訴えて告訴したものでした。
15.1955年:ローザ・パークス逮捕
アラバマ州モントゴメリーの裁縫工ローザ・パークスは、バスで白人に席を譲ることを拒否したところ、逮捕されてしまいます。これにキング牧師率いる黒人たちが反発し、381日間のバス・ボイコット運動に繋がってゆきます。
(その後、1956年に、連邦最高裁がバスの人種隔離は違憲であることを示します)
16.1955年:エメット・ティル少年殺人事件
1955年、シカゴに暮らす14歳の黒人少年エメット・ティルが、母親とミシシッピ州を訪れた際に、白人女性に口笛を吹いたことを理由に、拉致されて拷問の上殺害された事件の展示がありました。
あまりに暴行がすさまじかったので、ティル少年の母は棺を開けて弔問客にエメットの遺体を公開し、社会に衝撃を与えました。この暴行された姿は当時新聞にも載っていたので、実際に博物館でも見ることができます。人が人をここまで痛めつけることができるのか…と衝撃が大きく、この博物館で最も印象的だった展示のひとつです。
エメットの棺も展示されていますが、棺のあるエリアは撮影禁止のため写真はありません。
17.1900年~1956年:バス乗車ボイコット運動
1900年から1907年には、人種隔離に反対して、南部の25都市でバスのボイコットが始まっていました。
1953年ルイジアナ州では、黒人席と白人席の分離について、市条例を策定するよう嘆願書が提出され、白人は前方から座ることが規定されました。これを不満とする黒人が、条例施行日に、敢えて前方から座るボイコットを行ったところ、全員白人からなる運転手と対立が起こりました。結果「前2列は白人席とする」で落とし前がつきました。
1955年アラバマ州モントゴメリーでは、ローザ・パークスがバスでの乗車席をめぐり逮捕されたあと、その反発として、黒人たちが381日間乗車をボイコットしました。当時のモントゴメリーはバスの利用の2/3が黒人でした。
このように、各地でバスのボイコットが起こり、最終的には1956年にバス施設での人種隔離が違憲であるという連邦最高裁判決が出ました(ボイントン対バージニア判決)。
18.1957年:リトルロック高校の人種共学運動
アーカンソー州リトルロック市では、裁判所の命令に応じて、リトルロック・セントラル高校に、学業優秀な9名の黒人学生の入学を許可することとしました(白人生徒は2000名)。これも「アメリカ黒人の歴史」から、当時の様子を示す部分を抜粋します。
- 人種統合反対派の知事が、この問題を自身の選挙戦アピールに活用するため、これら黒人生徒の入学を阻止するために、州兵250名をリトルロック高校に動員。
- 静観していたアイゼンハウアー大統領も、知事に面会して対策を依頼。知事は州兵を撤退させたものの、敢えて無政府状態を作り出したため、黒人生徒の登校日には暴動が発生。
- キング牧師からの依頼もあり、大統領はアーカンソー州兵を連邦兵に編入し、連邦軍1000名に出動を命じ、裁判所決定を守れば連邦兵を撤退することとした。
- 最初の黒人卒業生アーネスト・グリーンの言葉「ぼくたちは一段ずつ高校の階段を上った。銃を構えた連邦軍に守られて。夢じゃないんだ、とうとう学校に行けるんだと思っていました。階段を踏みしめながら、それまでにない最高の気分を味わっていました」
19.1960年:分離統合運動 ルビー・ブリッジスの初登校
ニューオリンズ州の黒人ルビーは、ブラウン判決の出たその年にニューオリンズに転居し、白人のみが通っていた小学校の黒人生徒第1号になりました。
学校内の分離主義者からの反発が大きく、毎日4人の保安官に同行されながら、初年度は1日も休まず登校しました。
この反発から、ルビーの父は職を失い、母は食品の販売を拒否され、祖父母は25年勤めた農場を追い出されています。
20 .1960年:Sit in(座り込み運動)
ノースカロライナ州グリーンズボロにて、ノースカロライナ農工大の4人の黒人学生が、全米各地に支店を持つチェーン飲食店にある白人専用ランチカウンターにて、座り込み運動を始めましあた。その年の2月1日から始まり、7日の抗議集会には1600人が集まる大集会になりました。
4月には南部の80近い都市に運動が広まり、2000人以上の学生が逮捕されました。
このグリーンズボロの実際のランチカウンターが保存されているほか、カウンターを模した展示ではタッチパネルがあり、それぞれの公民権運動について、自分ならばどのようなかかわり方をするか答えるゲームを体験できます。
21.1961年:自由のための乗車運動
1961年、人種平等会議(Congress of Racial Equality CORE)の黒人・白人メンバーで、最高裁判決(ボイントン対バージニア対決。バス車内及びすべての関連施設での人種差別禁止)がどの程度守られているのか検証するために、ワシントンDCから南部のニューオリンズ州まで、「敢えて白人専用エリアに座る」バス乗り継ぎの旅に出ます。
「アメリカ黒人の歴史 新版(本田創造)」の記載を抜粋すると、南部エリアに突入してから、かなり激しい旅であったことが伺えます。(COREのメンバーは「ライダーズ」と記載します。)
- サウスカロライナ州ロックヒル:20人の暴漢がライダーズを襲う。警察は、女性ライダーズが押し倒されてようやく反応する。
- アラバマ州:火炎瓶が投げ込まれてバスが黒焦げになる。
- アラバマ州アニストン:バス内で、白人が「黒人エリアに座れ」と要求し、ライダーズがこれを拒否したところ、殴られて重症になる。やむなく黒人エリアに移動。
- アラバマ州バーミングハム:KKKのメンバー含む40人の暴徒がバスを取り囲む。鉄パイプで殴打され、COREメンバーのひとりは、53針縫う大けがをする。警察は対応しない。
- アラバマ州モントゴメリー:乗せてくれるバスがなくなり、計画を変更する。ニューオリンズまで飛行機で行き、ブラウン判決記念の大衆大会に出ることを目的とする。
- 学生非暴力調整委員会(SNCC)が活動を引き取り、ライダースを新編成する。
- 暴徒が3000人以上に膨れ上がり、世界の注目を集める。ロバート・ケネディ司法長官は6000人の連邦保安官とFBI捜査官を派遣
- ミシシッピ州ジャクソン:白人待合室に入った瞬間、治安妨害と警察不服従の容疑でライダーズが全員逮捕される
- ニューオリンズにはたどり着けず。全米各地で類似活動が起こる。
- 州際交通委員会が「人種差別をしているバスは扱わない」と宣言し、COREが勝利宣言をする。
22.1963年:ワシントン大行進・キング牧師”I have a dream”演説
ワシントンDCにて、ワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで、25万人の人々が職と自由を求めて行進を行いました。
その最後にキング牧師が行った「I have a dream」の演説原稿がありました。
23.1964年・1965年:公民権法、投票権法の制定
公民権運動の集大成として、1964年に公民権法、1965年に投票権法が制定されます。