アメリカの博物館を訪問する中で、アメリカの黒人の歴史について、時系列に沿って、各事項の内容と繋がりを知りたいと思ったため、本を1冊読みました。
ネットで良書と評されており、実際に簡潔で分かりやすくて良い本でした。1991年と少し古いです。
<目次>
プロローグ アメリカ黒人とは
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黒人が白人を殺害したときの死刑になる割合は、白人が黒人を殺害したときの4倍以上
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2020年現在で、黒人は総人口の12.1%。
1.植民地時代の奴隷制度
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1619年:ヴァージニア植民地
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建国の歴史としてはマサチューセッツ植民地が有名だが、最初ではない
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金銀を求めてやってきたが、タバコ栽培を生業とする方針に変更。安価な労働力が大量に必要
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アメリカの民主主義と奴隷制度は、同じ年に同じ場所で始まっている
- 1619年:オランダ 船から20人の奴隷を譲り受ける
- 1619年:ヴァージニア植民地議会の代議院開会(植民地自治の開始)
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奴隷制度の起源(世界)
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奴隷制度の起源(アメリカ)
2.独立革命
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1770年3月 ボストン虐殺事件
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独立戦争の契機となる事件。植民地の民衆とイギリス駐屯兵の間に諍いが生じ、植民地人5人が殺害される事件。
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最初の被害者クリスパス・アタックスは自由黒人
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1775年 独立戦争
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1789年 合衆国憲法制定:奴隷と奴隷貿易が憲法に規定される
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「合衆国に直属する国土」と規定し、インディアンから土地を奪う(第4条第3節第2項)
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州の人口算定で、奴隷を「自由人以外のすべての者の数の5分の3」と規定する(第1条第2節第3項、いわゆる5分の3条項)
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「入国が適当と認められる人々の移住又は輸入」として黒人奴隷貿易を規定(第1条第9節第1項)
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1775年 奴隷制反対協会
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ベンジャミン・フランクリン主導。ペンシルバニアのクエーカー教徒を母体とする。
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3.南部の綿花王国
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19世紀初頭:国際的な奴隷禁止制度の流れが生まれる。
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1808年:アメリカ・イギリス
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1819年:フランス
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このときアメリカは、奴隷人口が過剰になっていた。
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トマス・ジェファソンが自分の奴隷を開放し、ジョージ・ワシントンも奴隷を開放するよう遺言を残す
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奴隷制をトピックとした南北対立の緊張が高まる
4.奴隷制廃止運動
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フレデリック・ダグラス
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ハリエット・タブマン
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自身も元奴隷だが逃亡に成功する。
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1850年に自分の妹と子供を逃亡させた後、南部の黒人のカナダへの逃亡を300人近く支援した。
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ウォーカーの訴え(Walker' Appeal)
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ジョン・ブラウンの蜂起
5.南北戦争
6.南部の再建と黒人差別制度
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1865年:リンカン暗殺
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南部再建:アンドリュー・ジョンソン大統領
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再建の失敗
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北部では労働運動が盛んになり始めていたため、南部の再建が行き過ぎることで、北部の労働運動が勢いづくことを恐れていた
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KKKなどの白人至上主義の秘密結社が台頭した
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1877年:南部から合衆国軍が撤退:ヘイズ・ティルデンの妥協
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時代背景:19世紀後半は「金ぴか時代」。すさまじい経済発展
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製造業生産高7倍、賃金労働者4倍、投下資本額10倍
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1880年代に主要産業が農業←鉄鋼や製造業へ。フロンティア消滅。
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1869年 大陸横断鉄道が完成。
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南部諸州では、合衆国軍撤退以降、黒人差別的な州法が成立していく。
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シェアクロッピング・システム
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人民党運動
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1891年:人民党誕生(第三政党)
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貧しい白人と黒人の対立が再燃する。貧困という現実が、人種差別を再燃させた。
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黒人選挙権の剥奪
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黒人の市民的自由の剥奪
7.近代黒人解放運動
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リンチ事件の増加
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1882年から1947年の間に起こったリンチ事件3426件のうち、36%(1217件)が1890年代の10年間に発生している
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ジム・クロウ体制
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南部地域で、人種分離を認める法律が多数成立
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黒人が北部へ流入すると、北部エリアでも雇用や住宅面での人種差別が広がる。
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ブッカー・T・ワシントン
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W.E.B.デュボイス
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NAACP(National Association for the Advancement of Colored People、全国黒人向上協会)
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1909年創設、1910年名称決定。
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1908年にイリノイ州スプリングフィールドで起こった大規模な人種暴動に端を発している
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リンチ反対運動や法廷での黒人差別撤廃闘争に精力
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ナイヤガラ運動系列
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NUL(National Urban League、全国都市同盟)
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南部農村から離脱して都市部に集まる黒人の都市問題に貢献
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タスキーギ運動系列、穏健
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第一次世界大戦と黒人ディアスポラ
8.公民権闘争の開幕
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1941年 大統領令8802号:雇用による人種差別禁止
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防衛産業や政府機関で人を雇う場合、人種・信条・肌の色・出身国により差別してはならない
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第二次世界大戦での徴兵が必要だったが、移民の国なので国民のルーツが異なり、国をまとめるのが難しい
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順守されているかどうか、公正雇用実施委員会を設置
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トルーマン大統領時代
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1940年 最高裁 スミス対オールライト判決
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1951年 最高裁 ブラウン対教育委員会判決
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1953年 ルイジアナ州バスボイコット運動
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黒人と白人のバス席を分離することについて、市条例の制定を求める嘆願書が提出される。結果「白人は前方から、黒人は後方から」座ることが規定される。
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これを不満とする黒人が条例の施行日にボイコットをするが、全員白人からなる運転手たちと対立。
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ボイコットが6日続き、妥協策として「前2列は白人席とする」で終結。
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1956年 最高裁 バスの人種隔離は違憲
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オリザリン・ルーシー事件
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3年間の法廷闘争を経て、大学入学の権利を勝ち取った黒人女子学生ルーシー
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入学3日目に、ルーシーの入学を阻止しようと500人の学生が集まる。ルーシーの車は投石で破壊され、なんとか難を逃れる。
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大学は「ルーシーの安全を守るため」休学を命じる。アラバマ州連邦裁判所に復学を求める訴訟を起こして勝訴するが、虚偽の暴言で大学を非難したとして、退学処分になる。
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1957年 アーカンソー州リトルロック市の人種共学運動
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人種統合反対派の知事が、この問題を自身の選挙戦アピールに活用するため、これら黒人生徒の入学を阻止するために、州兵250名をリトルロック高校に動員。
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静観していたアイゼンハウアー大統領も、知事に面会して対策を依頼。知事は州兵を撤退させたものの、敢えて無政府状態を作り出したため、黒人生徒の登校日には暴動が発生
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キング牧師からの依頼もあり、大統領はアーカンソー州兵を連邦兵に編入し、連邦軍1000名に出動を命じ、裁判所決定を守れば連邦兵を撤退することとした。
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最初の黒人卒業生アーネスト・グリーンの言葉「ぼくたちは一段ずつ高校の階段を上った。銃を構えた連邦軍に守られて。夢じゃないんだ、とうとう学校に行けるんだと思っていました。階段を踏みしめながら、それまでにない最高の気分を味わっていました」
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1961年 自由のための乗車運動
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最高裁判決(ボイントン対バージニア対決。バス車内及びすべての関連施設での人種差別禁止)がどの程度守られているのか検証するために、CORE(人種平等会議)が主催した、ワシントンDCから南部のニューオリンズ州まで、「敢えて白人専用エリアに座る」バス乗り継ぎの旅。
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アラバマ州:火炎瓶が投げ込まれてバスが黒焦げになる。
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アラバマ州アニストン:バス内で、白人が「黒人エリアに座れ」と要求し、ライダーズがこれを拒否したところ、殴られて重症になる。やむなく黒人エリアに移動。
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アラバマ州バーミングハム:KKKのメンバー含む40人の暴徒がバスを取り囲む。鉄パイプで殴打され、COREメンバーのひとりは、53針縫う大けがをする。警察は対応しない。
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アラバマ州モントゴメリー:乗せてくれるバスがなくなり、計画を変更する。ニューオリンズまで飛行機で行き、ブラウン判決記念の大衆大会に出ることを目的とする。
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学生非暴力調整委員会(SNCC)が活動を引き取り、ライダースを新編成する。
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暴徒が3000人以上に膨れ上がり、世界の注目を集める。ロバート・ケネディ司法長官は6000人の連邦保安官とFBI捜査官を派遣
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ニューオリンズにはたどり着けず。全米各地で類似活動が起こる。
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州際交通委員会が「人種差別をしているバスは扱わない」と宣言し、COREが勝利宣言をする。
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1963年 ワシントン大行進
9.黒人革命
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1960年 ランチ・カウンターへの座り込み運動(Sit in)
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5大解放組織が出そろう
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NAACP(National Association for the Advancement of Colored People、全国黒人向上協会)
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NUL(National Urban League、全国都市同盟)
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CORE(Congress of Racial Equality、人種平等会議)
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SCLC(Southern Christian Leadership Conference)
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SNCC(Student Nonviolent Coordinating Committee、学生非暴力調整委員会)
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