第1回、第2回に続き、「移民国家アメリカの歴史」で学んだことを羅列します。
<目次>
★第5章、第6章に書いてあったこと
- 第一次世界大戦、第二次世界大戦の影響
- 人種不平等体制の是正
- 多元国家、多文化国家としてのアメリカ
- 「坩堝論」はアメリカが単一の文化を保持したひとつの国家に溶け合っていくという考え方だが、多元国家・多文化国家は、従前の国家のルーツを保持したまま様々な集団が共存している社会を指す。
- 結局アメリカとは
- 労働力の資本主義:産業労働力創出の需要に応えるための巨大な包摂装置
★興味深かったこと
- 20世紀初頭、世界が領土を求めて帝国主義的になる中で、広大な土地を有していたアメリカは、領土獲得に対しては中立的な姿勢を保ったものの、その一方で安価な労働力を求めて移民を求めていた。「労働力の資本主義」とは言いえて妙であると感じた。
- 日本人のイメージが良いのは、第二次世界大戦後にアメリカ国内で様々なマイノリティ(移民)が人種差別撤廃を求めて活動的になった際に、模範移民としてのイメージに積極的に活用された結果によるもの、という記載が興味深かった。
- アメリカが「坩堝」ではなく、多元国家あるいは多文化国家であるという意見は、現在アメリカに住んでいる感覚とも一致する。都市部においては特に、ある程度異国の食材も手に入りやすく、文化・宗教行事もあり、出身国別のコミュニティに属しながら母国のアイデンティティを保って生活しやすい。
★以下、学んだこと詳細
第5章 アジア系アメリカ人の戦後
(1)戦後のアジア人の境遇の変化
- 中国系
- フィリピン系
- 韓国
(2)戦後のアメリカ国内の変化
- 戦争により国内人種問題が国際的にも注目を集めたことで、人種差別主義への取組が覚醒した(戦争にマイノリティを動員したことで、マイノリティの国民化が一気に進んだ)。
- 戦争時の軍需産業従事のため、南部から北部・中西部・西部へ黒人が移動した。
(3)戦後の国際社会の変化
- 国際連合構想
- 戦争花嫁
(4)戦後の日系人移民
- 労働力確保や強制収容所の経費節減から、「忠誠登録」により強制収容所を出て、徴兵以外の道を選んだものもいた。
- 連邦最高裁判決(1944):本人の意思なき拘留は違憲→9割以上が西海岸に帰還
- 精神的苦痛の大きさから、収容所からの帰還組は、強制立ち退き・強制収容の経験を子供に話さず沈黙を守った。
- リドレス運動(Redress ---「不正義を正す」運動。強制収容の補償請求)
- 公民権運動等のマイノリティ運動の盛んな時代、ブラック・パワー運動とイエロー・パワー運動が共振
- 国内治安維持法第二項の廃棄運動
- 強制収容に対する補償要求提案が採択され「全米補償請求委員会」が誕生
- 事実調査のための「戦時民間人転住・収容調査委員会」が設置(1980)
- 委員会が報告書「拒否された個人の正義」を刊行し、強制収容が「人種差別、戦時ヒステリー、政治指導者らの失敗」であったと結論付ける(1983)
- 委員会勧告に従い、連邦議会が「市民的自由法」を成立させ、立ち退き・強制収容を経験した存命の日系人に対し、20,000ドル/人を支払。レーガン大統領が公式に謝罪。
- スミソニアンアメリカ歴史博物館「より完全な統合に向けて(A More Perfect Union」として歴史展示がなされていた(1987~2008)」
- モデル・マイノリティとしての日系人
- 「帰化不能外国人」の撤廃
- サンフランシスコ講和条約(1952)の2か月後に、1952年移民法(マッカラン=ウォルター法)が成立・施行。移民1世の帰化が認められる。
- 朝鮮戦争がはじまる時期であったため、人種差別を一掃する姿勢は、アジアにおける親米政治圏の確立と結びつけられた。
- 一方で1952年移民法はにより外国人登録が義務化され、メキシコ系の不法移民が100万人以上強制送還された。
- それまで日本は移民・植民・引揚者などによる多民族国家であったのに、その記憶は忘却され、今日においては「日本は単一国家である」という神話が定着している。
- 朝鮮戦争下の冷戦戦略上、アメリカは日本を早く核の傘下に取り込むことを優先したため、日本はアジア諸国と賠償問題を協議する機会を失った。アメリカの戦後の日系移民政策も、この系譜を踏まえてみるべき。
(5)戦後移民政策の第二章 ― ケネディ大統領とジョンソン大統領
- 1965年移民法:ヨーロッパ優位であった移民の国別割り当て廃止
- 冷戦下の世界情勢と、国内の公民権運動の高まりを受け、より民主的なルールが望まれた
- J・F・ケネディ大統領は初のWASP以外の大統領であり、豊かさの源泉を、移民が持ち込む多様な文化に求めた
- 暗殺によりリンドン・ジョンソン大統領が1965年移民法を完成させた
- 移民法の署名には、移民国家アメリカの再出発にふさわしいリバティ島(自由の女神)を選び、「過去40年以上、合衆国の移民政策をゆがめてきた国別割り当て制の不正義を糾す」とし「二度と再び、偏見と特権という双子の障害物で、アメリカの門戸を遮断することはない」と演説した。
- この法改正がアメリカの人種構成を劇的に変化させる起点となった*2。1960年代に日系移民はアジア系で最大であったが、国内の高度経済成長の影響を受け、2010年はアジア系全体の7%に落ち込んでいる。フィリピン、インド、ベトナム、韓国系が増加している。
最終章 アジア系移民の歴史経験を語り継ぐ
多元主義の登場
- 坩堝論とは、同化主義を基本としており、移民がヨーロッパから持ち込んだ民族性を捨て去り、「単一のアメリカ」へ移行するモデル
- (坩堝論に対抗するものとして、)新移民の大波を受けた後のアメリカでは、エスニックな文化を肯定的に評価する文化多元主義(pluralism)が登場。
- 坩堝論は神話にすぎない?