アメリカの祝日、MLK(Martin Luther King Jr.)の日が近いということで、アフリカ系アメリカ人の歴史を学びに国立アフリカ系アメリカ人博物館(National Museum of African American History and culture)を見に行きました。
黒人の歴史や公民権運動については、アメリカ歴史博物館でも展示がありますが、そちらでは残虐な展示などはあまりありませんが、こちらのアフリカ系アメリカ人博物館では、残虐なもの含め、黒人に関わる歴史と文化について丸ごと展示してありました。
目玉の展示は下記3点ですが、時間に限りがあったため前半2点のみ見てきました。
- Slavery &Freedom(奴隷と自由)1400-1877 ←今回はココ
- The Era of Segregation(人種隔離の時代)1877-1968
- A Changing America(変わりゆくアメリカ)1968以降
Slavery & Freedomについても、ウェブで解説があります。
<目次>
1.大陸発見
奴隷は、アフリカから誘拐されて連れてこられたんですね。拘束具が展示されていました。
金は天然資源なので増やせませんが、砂糖はプランテーション農園を造れば永久に生産することができるので、奴隷貿易をより促進したそうです。
初期のプランテーション農園の奴隷の平均寿命は7年、死亡率3割とあり、かなり厳しい環境であったことがわかります。
これは教科書で見た記憶があります、奴隷貿易船ですね。
暴力が日常的にあったことの解説と共に、奴隷を吊るして叩いていた時の鞭が展示されていました。
2.独立戦争と奴隷
自由と平等を掲げて独立した国アメリカですが、その創成期にも、生活には常に奴隷が身近であったことが解説されていました。
独立戦争の契機になったボストン大虐殺の最初の犠牲者、クリスパス・アタックスは自由黒人でした。
独立戦争では、イギリス軍にもアメリカ軍にも奴隷がいたことが記載されていました。どちらの軍も、従軍した黒人奴隷には自由身分を与えることを約束したようで、黒人たちは自由を求めて戦ったことになります。
3.独立宣言の矛盾
独立宣言が出されますが、独立宣言に掲げられた自由は、黒人奴隷には適用されなかったことへの矛盾が記載されています。
この「自由を叫ぶ国アメリカが、実は奴隷から自由を搾取しながら建国されたこと」の矛盾は、よく書物では見たことがありましたが、この矛盾について実際に堂々と展示されているのは、このアフリカ系アメリカ人博物館と、国立公文書館でしか見たことがなかったので、非常に興味深かったです。
アメリカ独立宣言の起草者で、第3第合衆国大統領のトマス・ジェファソンも609人の奴隷を所有していたことが書かれていました。ジェファソンのほか、アメリカ初期の大統領は18人中12人が奴隷を所有していたようです。
確かに、初代大統領ジョージ・ワシントンの邸宅「マウント・バーノン」を訪問した際も、邸宅で働いていた奴隷の多さについて説明がありました。ジェファソンの邸宅も「モンティチェッロ」と呼ばれ、現在も見学が可能ですが、邸宅内にも100人以上の奴隷がいたそうです。
さらに個人的に調べたところ、ジェファソンは「黒人は白人よりも劣っている」という思想を持っていたようです。
黒人に自由と平等が適用されないこの矛盾について、ジェファソンに直接矛盾を指摘したベンジャミン・バネカーなる黒人科学者が紹介されていました。ジェファソンに宛てた手紙も展示されていました。
こちらも国立公文書館でも解説がありましたが、奴隷はワシントDCの建設にも深くかかわっており、国会議事堂・ホワイトハウス・スミソニアンキャッスルは奴隷労働で建築されたことが解説されていました。
4.南北戦争へ
綿花生産などに支えられ、世界の経済大国となったアメリカですが、同時に、奴隷制の是非に関する国内対立が深刻になってゆきます。
1854年、州が自ら奴隷制を選択することを決めるカンザス=ネブラスカ法の制定により、奴隷制反対を掲げる共和党が誕生しました。
そして1860年には共和党の代表にリンカーンが就任し、翌年には南北戦争に突入していきました。
元奴隷のゴードン二等兵の背中の傷は、奴隷制反対への強力なメッセージになりました。
この時代の奴隷廃止論者として功績の大きいフレデリック・ダグラス、ハリエット・タブマンの紹介もありました。
5.奴隷の自由獲得への歴史(大陸発見~南北戦争終結)
奴隷の人権が獲得されていくまでの重要な動きが時系列でわかりやすく展示されていました。
1803年 ルイジアナの購入による奴隷の拡大
フランスからルイジアナを購入した時、ここは綿花の生産地であったため、奴隷労働が激しい地域でした。これを機に世界の綿花生産に占めるアメリカのシェアも高まります。
1811年 デスロンデスの奴隷反乱
1807年 国際的な奴隷貿易の廃止
アメリカに先駆けて、世界各国が奴隷貿易を廃止し始めたため、アメリカもこれに追随しました。
1808年 アブサロム・ジョーンズの感謝祭の説教
当時のアフリカ系アメリカ人の教会では、奴隷貿易の廃止が祝われました。
1820年 ミズーリ妥協
奴隷州のミシシッピと、自由州のメインが合衆国に加盟するした際に、アメリカ国内の奴隷州と自由州の微妙な政治的バランスを鑑み、北緯36度以北を自由州、それ以南を奴隷州とすることとした決定。
1829年 デビット・ウォーカーの主張
かなり初期の黒人ナショナリズム。
1850年 ミズーリ妥協の法制化
有色人種の市民集会も起こりました。
1854年 カンザス・ネブラスカ法
各州は、準州から州に昇格する際に、奴隷州になるか自由州になるか選べることになりました。これは奴隷州・自由州の選択を地理的に強制していたミズーリ協定を否定するものであったため、アメリカ国内の奴隷州・自由州のバランスを犯すものとして、緊張感が高まりました。
1857年 ドレッド・スコット判決
奴隷の市民権が否定された判決。主人の都合で州を超えた引っ越しをした奴隷ドレッドが、自由州に転居した瞬間に自由身分を得られたものとして、再び奴隷州に戻った時に自由身分を失ったことを訴えたもの。
最高裁は「そもそも奴隷は米国市民でないため、提訴権を持たない」として、奴隷は人間ではなく財産であるという衝撃的な判決内容となりました。
1862年 奴隷解放宣言
1861年に南部からの攻撃により南北戦争が始まっていましたが、その翌年にリンカーン大統領が発令した奴隷解放宣言。原本は国立公文書館に保存されていて通常時は展示されておらず、これは複製品を個人が寄贈したものです。
1865年 憲法修正13条(奴隷の禁止)
奴隷解放宣言の内容を憲法修正に落とし込んだもの。「米国内及びその管轄下において、奴隷制も不本意な隷属も存在しない」。
1868年 憲法修正14条(市民権)
市民権の規定を修正し、米国市民権がアフリカ系アメリカ人にも適用されることとされました。提訴権も与えられ、市民権を否定されたアフリカ系アメリカ人は、政府を提訴することができるようになりました。
1870年 憲法修正15条(投票権)
南北戦争前はほぼすべての州でアフリカ系アメリカ人の投票が禁止されていたので、憲法が改正され、「人種や肌の色、又は以前の隷属状態について投票権を否定することはできない」こととされました。