前回に続き、「移民国家アメリカの歴史」という本で学んだことを羅列します。
<目次>
★第3章と第4章に書いてあったこと
- 黒人問題の歴史では、19世紀後半以降の南北戦争後の再建政治は「失敗」とされ、南部ではジム・クロウ体制などの人種別社会が構築されていくが、アジア系移民に焦点を当てても、同様に人種の序列化・排斥化の時代となっている
- アメリカ移民行政の根本に、移民を「選び捨てる」思想があるが、その背景には優生学思想があった。20世紀前半のアメリカは優生学の中心地であった。
- 既に中国人問題によるアジア人排斥の動きのあるアメリカ西海岸に、中国人労働力の穴埋めのような形で日本人移民が入国してゆく。当時の日本人移民は、土地の所有や白人女性との結婚禁止、帰化禁止(1870年帰化法)などの排他的な制度環境に置かれ、1924年には排日移民法が制定された。
- 第一次世界大戦では、戦争を通じ、理念により国民を統合させる効果があったほか、軍隊はアメリカの生活作法や語学を学ぶ場にもなった。
- 第二次世界大戦では、真珠湾攻撃を機に日本人は資産を凍結され、強制収容所に入れられることとなった。
★興味深かったこと
- 19世紀後半~20世紀初頭に
・・・アメリカ全体の歴史と、在米日本人の歴史の関係性がよくわかり、頭が整理されました。
★以下、学んだこと詳細
第3章 「国民」を管理する
(1)「アメリカ人」の境界をめぐる抗争
- 南北戦争後に「自由労働」「カラーブラインド」のイデオロギーに基づき、マイノリティをどこまで包摂していくか問い直され、いったんは中国人移民への市民権付与も現実味を帯びた。
- 実際には「社会の人種化」が進行し、再建政治は終焉する(中国系移民は「帰化不能移民」としてアメリカ人の埒外に置かれた)。
(2)ギアリー法(1892)による移民行政の強化
- 全ての在米中国人に居住証明の登録を義務化:「不法滞在」が犯罪となる
- 合法的居住者であることを証明する白人の証人を見つける必要
(3)人種主義と優生学
- 移民行政の、国民を「選び捨てる」姿勢の根本にある考え
- 人種混交は「退化」と考えるほか、性的倒錯、障害者、白痴、ユダヤ人、同性愛などの「内なる他者」も排除がめざされた時代
- アメリカは優生学の中心地で、19世紀末までに異人種間結婚禁止法を制定した州は38にのぼる。
- カーネギー財団やロックフェラー財団など、篤志家や私的財団が全面的支援
(4)20世紀転換点における革新主義
(5)巨大な包摂メカニズムとしての移民行政
- 緩い移民行政
- 大きな労働需要がある故、産業界の利害を優先し、自由移民政策がとり続けられてきた。
- 初代移民局局長、テレンス・パウダリー(元労働騎士団団長)
- 産業界の事情を優先した自由移民行政は、労働者からの反発を招いた
- 移民への厳格な健康管理を求めたり、恣意的な法運用がなされた(労働組合出身の移民局長という癒着人事の影響)
第4章 日本人移民と二つの世界大戦
(1)日本人の渡米の開始
- 19世紀に欧米諸国が広い海域ネットワークを構築
- アメリカの商業捕鯨エリアはかなり広く、1820年には日本近海に到達していた。1854年の日米和親条約のアメリカ側の動機も、商業捕鯨の寄港地確保であった。1867年に、サンフランシスコ・横浜・香港間の航路が開設され、アジア系移民もこの航路で海を渡るようになった。
(2)日本人最初の在米コミュニティ
- 若松コロニー:1869年に、戊辰戦争に敗れた会津藩出身者が入植してカリフォルニアに開拓村を開こうとしたが、2年後に離散した。
- 「元年者」:ハワイ王国駐日領事のアメリカ人がプランテーション労働者を募集し、153名が渡米。過酷な労働環境に、明治政府が「国家の威信にかかわる問題」として約40名を奪還、残る90名はハワイに残留した。残った者の半数はアメリカ本土に移り住み、さらに残りはハワイ社会に定着した。
- 開国したばかりの日本は、中国と同様に、労働力の供給源として見られていた。中国は移民問題に不干渉姿勢だったが、日本は初期段階から在外邦人の差別問題を国辱的な外交問題と認識したため、日本人渡航者は中国人苦力とは差別化された存在となってゆく。
(3)ハワイの官約移民
- 「元年者」以降明治政府は日本人労働者の出国を禁じていたが、1880年代の松方財政により農村が困窮すると、方針転換をして日本人契約労働者をハワイの砂糖プランテーションに派遣することとした。(三井物産の取り仕切り)
- ハワイ王国が崩壊し、ハワイ共和国が成立するまで約3万人がハワイに渡った。
- その後、官約移民→私約移民として契約労働移民は継続し続けるが、1898年にアメリカがハワイを併合した際に、契約労働者の導入がアメリカ連邦法で禁じられていたため、その後は自由移民として、1907年までに68,000人の日本人がハワイに渡った。
- 日本人はハワイ最大の移民集団となった*1。日本の他は中国、ポルトガル、フィリピン、朝鮮半島の移民がおり、劣悪な労働環境に全労働者が一致団結して抵抗することがないように、エスニック集団ごとに役割を変え、賃金を変え、分断して統制していた。
(4)アメリカ本土への日系移民
- ハワイに官約移民が送られ始めた頃、アメリカ本土にもサンフランシスコを玄関として日系移民が本格化した*2。
- 排華移民法により中国人労働者の流入が停止したことにおり、中国人労働者が担っていた仕事*3についた。
(5)排日運動のはじまり
- 下記の理由により、排日運動が高まり始めた。
- 日本人労働者は低賃金で働きその賃金を本国に送金し、労働争議の「スト破り」に頻繁に使用されるなど、中国人労働者と同じ理由で憎まれた。
- 日本人学童隔離事件(1906)
- サンフランシスコ学務局が、日本人児童93名を公立小学校から、中国人の通う東洋人公立学校に異動させる命令を下した。国際問題に発展し、日本政府が今後一切アメリカ本土行きの日本人労働者に旅券を発見しないことで落ち着いた(日米紳士協定)。
- 写真花嫁
- 外国人土地法(1913)
- 日本政府は日露戦争後に一等国としての自意識を強く持ち始めていたため、カリフォルニアの排日運動というローカルな現象について不快感をあらわにし、大統領や国務長官への直接的な働きかけで事態を鎮静化しようとした。
(6)第一次世界大戦とアメリカの国民統合
- 戦争による「移民のアメリカ化」
- モンロー主義を貫いていたウィルソン大統領が、ドイツの無差別潜水艦爆撃事件で多数のアメリカ人が犠牲になったことを受け「平和と民主主義、人間の権利を守る戦い」「諸民族を開放する闘争」「すべての戦争を終わらせるための戦争」と位置づけ参戦(1917)
- アメリカ国内の外国生まれ人口は1910年で総人口の14.7%。最大の移民集団はドイツであり、ロシアや南欧の移民も抱えていた。徴兵の方針次第では、国家分裂のリスクがあった
- ウィルソン大統領は、崇高な戦争の大義に従い移民たちの国民形成が進むことを願い、徴兵は強制ではなく草の根主義とされた。最終的には移民兵は役41万人となり、その8割は東欧・南欧の出身であった。
- 移民兵は軍隊で近代的規律や公衆衛生、アメリカの共通文化を学び、訓練基地には兵士向けの英語教育プログラムが供えられた。
- アメリカ民主主義の普遍性への確信
- すすむアメリカ国内の国民統合
- 第一次世界大戦は「民族解放のための戦争」だったのか?
- あくまで「帰化不能外国人」である日本人
(7)1924年移民法ーいわゆる「排日移民法」
(8)第二次世界大戦と日系アメリカ人
- 真珠湾攻撃(1941)から48時間以内に、在米一世の有力者を中心とした924名が逮捕され、収容所に入れられた。財務省は在米日本人の銀行口座を凍結した。
- 日系人強制立ち退き(1942)
- 忠誠登録(1943)
*1:この時の各国移民により運営される砂糖プランテーションの様子は、オアフ島にある「ハワイ・プランテーション・ビレッジ」で再現されている。
*2:1891~1900年までに出稼ぎの男性労働者中心に27000名、1900~1907年に52000名、ハワイからも1907年までに38000人
*3:鉄道建設や鉱山、農業、果樹園、漁業、缶詰工場、家事使用人など
*4:日露戦争の勝利は、世界各地で白人に対する「有色人種の勝利」と捉えられた
*5:昭和天皇はこの提案の失敗を「大東亜戦争の遠因」と語っている(昭和天皇独白録)
*6:この戦争の英雄ダニエル・イノウエはトルーマン大統領による帰還祝賀会に出席した帰りに、床屋で「日本人の髪は切らないよ」と言われている。