この多様な国の成り立ちを理解したい
アメリカに暮らしていて、一番インパクトが大きかったのは、人種が多様なことでした。自然と移民政策に興味を持ち、これまでの経緯を知りたくなったため、本を1冊読みました。
アジア系移民の動きと、アジア系をとりまく移民政策の動きを整理した本です。
アメリカの多様性との葛藤、中国人排斥運動(そして黒人奴隷問題との関連)と、アメリカの歴史の大事な論点に触れることのできる良書でした。
<目次>
★第1章と第2章に書いてあったこと
- 第1章では
- 第2章では
- …等が記載されています。これらは筆者の独自分析ではなく、国民統合への努力や中国人排斥の歴史については、アメリカ歴史博物館のMany Voices,One NationやAmerican Democracyの展示にも、一部内容が含まれています。
★興味深かったこと
- 自由の女神は除幕式が1866年にもかかわらず、移民歓迎のシンボルとして定着したのは1930年代以降のこと。移民抑制政策をとって移民排斥運動が沈静したことにより、自由の女神を移民歓迎のシンボルとして掲げることが可能になった。(第1章)
- 19世紀前半では、国民の出入りを管理する出入国管理の仕組みがなかった。特にアメリカでは、長い間出入国管理が州政府の仕事であり、連邦政府の管理となったのは1882年(排華移民法により中国人の帰化を禁止する政策がとられた時)。パスポートの仕組みが整ったのは第一次世界大戦後。(第1章)
★以下、学んだこと詳細
序章「移民国家アメリカの二つの顔」
(1)移民こそがアメリカ史そのもの
- 世界最大の移民受け入れ国であり、約200年で7,536万人の移民を受け入れてきた(移民統計開始の1820年~2009年)。
- 「移民が主役の国」、「抑圧されし者の避難所」という自画像を持つ。「アメリカとは何か?」という問いの答えのひとつが「移民の国」という国家像。
- 20世紀転換期に東欧・南欧から「新移民」が大量流入するのをピークに、1920年代からは移民制限に舵をきっている。
- 第二次世界大戦後には再び移民は増え、現在は「新移民」期の移民数を超えている*1。
(2)移民国家の社会統合に関する神話
「ではアメリカ人、この新しい人間は何者でしょうか」ヨーロッパ人でもなければ、ヨーロッパ人の子孫でもありません。したがって、他のどの国にも見られない不思議な混血です。(中略)偏見も生活様式も、昔のものはすべて放棄し、新しいものは、自分の受け入れてきた新しい生活様式、自分の従う新しい政府、自分の持っている新しい地位などから受け取ってゆく、そういう人がアメリカ人なのです。」
「アメリカ人農夫の手紙」ヘクター・クレヴクール(1735~1813)
- クレヴクール神話
- ヨーロッパの封建的な体制や伝統から解放された新しい自由の地で、すべての人々が一つに溶け合う移民たちの社会的坩堝
- 全ての人たちがアメリカ化していくという楽観的な社会統合
(3)移民同士の序列化と排斥…アジア移民史に着目
- アメリカ社会は常に万人に開かれているように見えるが、実際はヨーロッパからの移民に限定されており、黒人や先住民は想定外とみなされてきた経緯がある。アジア系もまた、黒人に近い立ち位置にいた。
- 移民を排除し、移民集団を序列化し、人種化してきた排斥のプロセスについては、これまであまり描かれてこなかった。トランプ政権の移民制限は、移民国家アメリカでは異例の事態と描写されるが、ことアジア系移民に焦点を当てると、トランプ大統領による移民制限も、何ら新しいものではない。
- 19世紀後半の「中国人問題」を通して、アメリカは初めて国家として移民行政の仕組みを整え、「帰化不能外国人(アメリカ人になれない外国人)」を定義したことを踏まえると、アジア系移民は少数ではあるが、南北戦争後の国民統合の過程で決定的な役割を果たしてきた。その後1882年に制定される排華移民法は、特定国籍を排除した最初の移民制限措置であり、アメリカの移民政策上の大きな転換点である。
第1章 アメリカはいつ「移民国家」となったのか?
(1)移民国家アメリカで「創造された」伝統
- アメリカを表現する「坩堝」「サラダボウル」「自由の女神」「ピルグリム・ファーザーズ」等の伝統は特定の起源をもつわけではなく、無数の声の寄せ集めでできている。
- 独立宣言に影響を与えたトマス・ペインの「コモン・センス」では「亡命者を受け止めよ、そして、いつしか、人類の避難所(an asylum for mankind)となる準備をせよ」と記載されていることも、これら伝統の形成に影響している。
- 「伝統の創造」
- これらの国家的伝統が国民統合のために創られてきたものであり、古い歴史を持ち「伝統的」に見えるものの多くも、国民形成過程の政治的な目的で近年になって「捏造」されたものであるという考え方(イギリスの歴史家:エリック・ホブズウム、テレンス・レンジャー)。
(2)神話①ピルグリム・ファーザーズ
- 17世紀初頭のイギリスでの宗教弾圧から逃れ、信仰の自由を求めた宗教的な一団がイギリスのプリマスを出発し、1602年にニューイングランドに到着。その地をプリマス植民地と名付けた
- 入植の際に取り交わしたメイフラワー・コンパクト(盟約)がアメリカ合衆国の憲法の基礎になる
- 厳しい寒さにより1年目に半数が餓死したが、2年目には豊作に恵まれ、その援助をした先住民に感謝の機会を持とうとしたことが、今日の感謝祭の起源となっている。
- 高邁な理想にもとづく旅立ち、自己犠牲、苦難と忍耐、家族での渡航・定着など、これから渡米する誰しもがピルグリム・ファーザーズと同じ出来事を追体験するであろう、「移民の模範」としての大きな意味を持った。
(3)ピルグリム・ファーザーズ神話の現実
- そもそも初めての入植地はプリマスでなく、ヴァージニア州のジェームスタウンである。ロンドン商人によるヴァージニア会社が、タバコ栽培をしていた。ヴァージニアとメリーランド植民地は、たばこの一大生産地になってゆく。
- 労働力確保のため、白人移民を歓迎した。入植者の2/3が労働者であったが、厳しい環境により1年以内に半分が死亡した。
- 黒人は初めから奴隷だったわけではない。ヴァージニアにて植民地会議が行われたとき(1619)、オランダから初めて20人の黒人移民を譲り受けた。最初は黒人労働者も、白人労働者とともに契約労働をしていたが、白人労働者が厳しい環境に不満を蓄積させ、暴動を起こすようになった。この結果、17世紀末には、労働者としては積極的に黒人が雇われるようになっていた。
- 感謝祭は、建国後しばらく忘れられていたものをリンカーン大統領が復活させたもの。南北戦争では家族が分断されて闘うこともあったため、家族統合・国家統合のメタファーとして、国民的祝祭として取り入れられた。
(4)神話② 自由の女神とエマ・ラザラス「新しい巨像」
- エマ・ラザラスの詩「疲れた人々、貧しい人々を…私のもとに送りなさい」というフレーズは、アメリカ人なら誰でも知っている。自由の女神の建立にあたり、台座の資金への寄付を募る際、競売商品として出品された詩である。
- 詩が有名なので、自由の女神を移民歓迎のシンボルと捉える人が多いが、実際は女神除幕式(1866)には歌は彫られておらず、その30年後に彫られたものである。
- 自由の女神が移民歓迎のシンボルとして定着し始めるのは1930年代のこと。これは1924年移民法に係る一連の移民制限立法により「大量移民の時代」が終わりを告げた*2時期である。逆説的ではあるが、移民制限により国内の移民排斥運動が沈静化したことにより、移民歓迎のシンボルとして語られることが可能となった。
(5)神話③ 坩堝
- 「多からなる一(One out of many)」
- 国民統合の表現としての「坩堝」は、20世紀初頭、ユダヤ系作家イズラエル・ザングウィルの戯曲「るつぼ(Melting Pot)」が発表されて以降定着した。
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「ヨーロッパのあらゆる人種が溶け合い、再形成される偉大な坩堝。ドイツ人もフランス人も、アイルランド人もイギリス人も、ユダヤ人もロシア人も、すべて坩堝のなかに溶け込んでしまう。神がアメリカを造っているのだ。」
- このとき南北戦争後の白人間の和解が進んでおり、これが「坩堝」論の需要を後押しした。
(6)国民統合(アメリカ化運動)
- 19世紀後半に西部開拓が終了(フロンティアの消滅/1890)したが、このとき東欧・南欧(イタリア、オーストリア=ハンガリー、ロシアなど)の移民が大量に流入し、これらの言語や生活習慣、宗教が異なる移民は「新移民」として区別された。
- 連邦政府、公立学校、YMCAなどの市民団体、フォードのような大企業が連携して、市民権獲得をめざさない「新移民」向けの国民統合施策を行った。柱となったのは、英語教育などアメリカへの忠誠心を涵養する施策であった。
- エマ・ラザラスの歌もこの運動の一環で普及。1940年には観光地としてもブームを迎える。第二次世界大戦後にリンドン=ジョンソン大統領が移民の国別割り当て制限を撤廃した際にも、「その最も素晴らしい伝統に立ち返る」と宣言し、女神像の前で法案に署名した。
(7)理念の国アメリカ?
- 近代に成立した国家は、特定の民族の血縁的連続性に基づいて「伝統」を創造し、ナショナリズムを立ち上げた国家が多いが、アメリカはこれにあたらない。
- イギリス領植民地の国でありながらイギリス出身は建国当時の白人の6割に過ぎず、土台となるべき民族的単位がなかった。
- 世界的にも珍しい、移動・移住により作り出された「移民国家」であり、民族性は不問とされ、国民が共有可能な理念(独立宣言や憲法に謳われた共和主義や自由が国民統合の核とされた。
- 一方で、こうした理念で国民を統合しつつも、黒人奴隷制を抱えて出発し、その後も他の「民族国家」と同様に、民族や人種、宗教、政治信条などを根拠に移民集団を排除する構造を持っていた。
- 世界的にも近代は、人の移動がグローバル化し、自由移動と奴隷的移動が混在→自由移動中心に移行していった時代である。アメリカもこの潮流の中で、「奴隷国家」から自由意志移民による「移民国家」に変化していった。
(8)国家国民の境界を整える
- 19世紀は移動の世紀
- 人の移動がグローバル化した後もしばらく、国家は人の移動を管理統制することができず、「国民」の定義と囲い込みに時間と労力を要したことがわかっている。
- 入国管理制度も段階的に整えられた。19世紀中ごろにも、アメリカの移民受け入れ港には移民管理行政官がいなかった。
- 特にアメリカでは州が独自で帰化法設定権限を持っており、出入国管理を行っていた。アメリカで出入国管理が連邦政府マターになるのは、「中国人問題」を契機にして、1882年以降のことである。
- パスポートが世界的に普及するのは、第一次世界大戦後のこと。移動手段が国家管理されるようになったことを踏まえ、国際的な国家システムが誕生したと言える。
- この、人の移動が国家管理されるようになた19世紀において、アメリカの移民行政は「避難所」という自画像を持ちながらも移民管理を強め、特定の人種を帰化不能と設定するなど「門衛国家」としての性格を強化していった。
(9)帰化とアメリカの「国民形成」
- 帰化は自由白人を法の擬制により「国民」へと転換させるものであり、アメリカの国民国家形成の根幹をなす法制度。建国時は、帰化の要件は「自由白人」とされ、これによりアメリカはWASP文化を規範とする社会となった。
- 1882年の排華法の第14条で「中国人の帰化を禁ずる」と定められ、帰化不能外国人が生じたことは、自由移民の原則が破られた点で、重要な意味を持っている。
- 黒人と奴隷
- 「自由白人」の定義の当落線上での対立
第2章 中国人移民と南北戦争・再建期
(1)近代世界システム ―ヒト・モノ・カネのグローバル化
- 15-16世紀の大航海時代で移動が本格化。その後、航路と領事館が開設され、外交関係が生まれる。
- 推定1200万人の奴隷が植民地へと輸出され、砂糖・綿花・コーヒー・タバコなどの世界商品が莫大な富をもたらし、資本が蓄積された。
(2)華人ディアスポラ
- 現在、推定3500万人の華僑が世界各地に分散している。これらはアヘン戦争(1840)~19世紀末までの時期を流出の契機としており、これが東アジア世界が近代世界システムに包摂される時期と重なっている。
- ちょうど19世紀前半、各国が黒人奴隷を漸次廃止していたので、アジアからの労働者は黒人奴隷に代替するものと期待された(奴隷制廃止に伴う国際労働市場の再編)。
(3)苦力(クーリー)
(4)中国人移民とサンフランシスコの都市形成
- サンフランシスコ
- 中国人のカリフォルニア流入
(5) 排華運動
- 金採掘:外国人鉱夫への特別課税(1850)
- 政治文化:「自由白人」の線引きに厳格にこだわるネイティヴィズム
- 一方で、連邦政府は産業労働力の創出のため、清朝政府と中国人の受け入れを奨励(1868)。同じ理由で、鉄道や貿易の関係者も受け入れを奨励。
- 製造:アイルランド系移民と雇用の競合関係となり、対立
- 売春:サンフランシスコは男性単身労働者が多く、売春が社会問題化
(6)排華暴動
- 州知事選で、中国人の流入規制を主張する民主党候補が圧勝。
- 州議会選挙でも民主党が多数派。
- 数百人の白人労働者が建設工事現場の中国人労働者を襲撃、工場を破壊。事件の首謀者は逮捕されるが、労働組合幹部による「反クーリー・クラブ」が市議会に圧力をかけ、犯人は恩赦扱いで釈放。
- 差別的条例の数々:天秤棒の禁止(商売の規制)、弁髪条例(断髪の義務付け)
(7)政治問題化する排華運動
- 1877年暴動→カリフォルニア勤労者党(WPC)の設立。サンフランシスコ市長選で勝利し、公共事業での中国人労働者の雇用禁止を認めさせた。
- 州民投票「中国人移民流入の是非」反対 95.8%
- カリフォルニア州選出のジョン・ミラー上院議員が中国人移民規制法案を連邦議会に提出。「排華移民法」が成立(1822)。
(8)「アメリカ人」の境界:アメリカ社会秩序の混乱
- 19世紀中葉:奴隷国家から移民国家への衣替え
(9)連邦市民権の付与
- 南北戦争後、連邦権限が強化され、本格的な国家建設政治がスタート。
- 1868年:解放された黒人だけでなく、中国系など他のマイノリティにも市民権を拡大する方向で、憲法を修正(第13条、第14条第2項。悪名高い3/5条項の消滅)。
- 州に侵害されることのない連邦市民権という概念が生まれる。マイノリティが差別立法に闘う大きな武器に。
(10)南北戦争後の再建政治の挫折(1877)
- 合衆国憲法第15条「人種や肌の色、過去の隷属の状況により投票権を剥奪してはならない」→「投票の質の維持」のため、識字テストや納税額などで投票権の有無を決める
- プレッシャー対ファーガソン事件対決
- 南部の黒人と白人の分離に対し、連邦最高裁が「分離すれども平等」であれば問題ないとする。
- 人種隔離体制の確立:南部全域で、黒人から投票権を剥奪する動き(1890年代)
(11)「国民」の境界線上での差別内差別
(12)帰化不能外国人
- 1882年の排華移民法の設定により、中国人は帰化不能外国人となり、社会の底辺になった。
- 不況下で労資対立が激しくなるなか、対立を懐柔して新たな社会秩序を維持するため、黒人にかわる「他者」の創出が急務となり、中国人が初めにその対象となった。
- 中国人移民の無期限受け入れ停止(1904)
- 黄金徳裁判(1898):在米2世の市民権獲得を認めさせる
- 清朝政府は、移民問題に目をつぶる代わりに、列強諸国との間をとりもつことをアメリカに期待した