アメリカでの主婦生活を淡々と記録するブログ

アメリカ生活の備忘録。育児の思い出記録が中心です。慣れない環境で頑張って生活していますが、喉元過ぎれば自分でも「何を頑張ってきたか」忘れてしまうので、アメリカで頑張って来たことや悩み事、楽しかった思い出の備忘録として書いています。

ケネディセンターの館内ツアーに行ってきました

ケネディセンターとは、元大統領のジョン・F・ケネディの発案で建築された文化施設で、オペラやジャズ、クラッシックなど様々なコンサートが開催される場所です。
ケネディ大統領はホワイトハウスに芸術関係者をたくさん招待して、アメリカに物質的豊かさだけでなく精神的な豊かさをもたらすことを理想としていたようです。

英語の勉強を兼ねて、無料見学に行ってみることにしました。

<目次>

 

1.世界各国とのつながり

館内の展示について解説いただきましたが、世界各国とのつながりを感じる場面が多々ありました。

꙳エントランスの世界国旗꙳

ケネディセンターと言えばコレ!な国旗たち。
アメリカと国交のある国の旗が並んでいるので、北朝鮮などはないようです。


スウェーデンからのシャンデリア꙳

次に目を奪われるのがこのゴージャスシャンデリア。スウェーデンからの贈り物だそうです。


꙳フランスからのタペストリー꙳

アンリ・マティス作のタペストリー。2つあって、対象に展示されています。

⁡꙳オーストリアからのシャンデリア꙳

オーストリアからの贈り物。3つあるホールのうち「オペラハウス」にあります。シャンデリアは下に下ろせないので、掃除が一苦労なんだそう。


꙳日本からのステージカーテン꙳

その後ネットで知りましたが、オペラハウスはシルクのステージカーテンが贈られているんだそうです。どこ!?どこだったの…!?!?

꙳このほか(写真なし)꙳

オペラハウスのロビーにある鏡→ベルギー
コンサートホールのシャンデリア→ノルウェー
その他立体展示→アイルランド、スペイン、オランダ、アフリカ諸国、フランス、アルゼンチン、イスラエル、イギリス、デンマーク、スイスなどなど…


꙳国じゃないけど、州旗の展示꙳

ツアー終盤に、最初の部屋に戻ってきたかと思ったら、違う部屋でした。こちらは州旗のようです。

2.ケネディ大統領かなり人気です

ケネディ大統領が愛されていることを感じる展示も多数ありました。

ケネディ像꙳

フォトスポット化しているケネディ顔面像。大きいです。右半分は若き日のケネディ、左半分は晩年のケネディと言われているよう。
後ろにはセオドア・ルーズベルト島とポトマック河。「一枚の写真に、2人の大統領のコラボレーションね!」とガイドさん。


꙳オペラハウス 大統領席꙳

オペラハウスの大統領専用席。1年に1回くらいしか来れないそうだけど、逆にいうと1年に1度は必ず表敬訪問的に来ているらしい。歴代大統領が座った椅子!すごい!!

꙳外壁のメッセージ꙳

コンサートは格式高い(と感じやすい)場所だけど、気軽に誰でも入れる場所にしてほしい!ということから、JFKのメッセージが刻まれていました。
「この国は物質的に豊かなだけで、精神的に貧しくあるわけにはいかない。」
大統領のスピーチっていつもかっこいいです。


꙳PT-109꙳

2019年にできた別館"REACH"の、多目的ルームの名前。海軍にいたJFKが載っていた潜水艇の名前。日本軍に襲撃され、仲間を担いで6km泳ぎ、しばらく漂流。ココナッツにメッセージを書いて原住民に託し、原住民からオーストラリア軍への軍伝言リレーが発生して、その間助けを待つ。・・・・強すぎでは?
この船の名前が会議室になってます。


꙳今にも歩き出しそうなJFK

常に未来志向だったケネディを讃え、未来を見つめて歩く姿を銅像にしたものなんだそうです。恍惚の表情で、ホントに歩き出しそうでした。


꙳常設展꙳

ケネディの功績を讃えるワンルーム展示があります。タッチパネルでは、ケネディホワイトハウスに招いた著名人の解説が出てきます。
あと自分の顔写真をAIがポートレイトにしてくれる機械もあって楽しい🤭
なぜか日本語のポスターあり、愛知文化講堂でのダンスのポスターでした。愛知文化講堂ってどこかな?


JFKのパパが凄い꙳

日本語wikiに出てくるJFKパパエピソードがすごい💸パパは実業家、ママの家系がボストン市長。

  • ハーバードに入る学力は無かったが、親の尽力(?)で入学

  • 在学中にjfkが書いた論文をプロに手直しさせ「英国はなぜ眠ったか」というタイトルで出版。売り上げ(約8万部)を戦争被災地に寄付。この時、父は在英アメリカ大使。

  • 卒業後、海軍に合格できなかったが、士官コースに入れるよう手配

  • 戦地に赴かないDCの情報局に配属されるよう手配

  • ナチス支持者の疑いのある女性と良い仲になったので、二度と二人が会わないよう海上勤務に転向させる

  • PT109の遭難から生還した際、勲章をとれるよう手配。お抱え記者にJFKの英雄談を書かせ、大量配布

  • 海軍除隊後、父の助けで記者に転向

  • 兄が戦死したため、代わりにJFKが潤沢な政治資金の応援を受けて政界へ。

    名刺には「PT109からの生還」「英国はなぜ眠ったかの著者」の売り込み文句。

最後のパパ情報はwikiから拾いましたが、ホントパパ強すぎでは?国民から愛されるJFK、その前に親の愛がすごい。

 

3.黒人街の産んだスター、マリアン・アンダーソンについて

ケネディセンターの中ではこの像しかないのですが、ガイドさんが最も熱を込めて説明してくれたマリアン・アンダーソンについて。このツアーで初めて聞きました。

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꙳生い立ち꙳

マリアンはフィラデルフィアの黒人街で生まれます。特別な音楽教育を受けていないのに、教会の聖歌隊の中で歌っているうちに、あまりの美しい歌声に、近所の方々が有名な声楽家に師事するための資金を集めてくれます。
(その後、その歌声はあらゆる場で認められ、世界各国で声楽を学ぶことになります)

꙳黒人初のリンカーン記念堂でのコンサート꙳

1939年にマリアンはリンカーン記念堂でコンサートを行いますが、これは公民権運動的には大きな出来事です。
というのも、1935年から1952年まで、コンサートホールの内規によりホールで歌うのは白人のみだったのです。
これに激怒したエレノア夫人(フランクリン・ルーズベルト大統領のファーストレディ)が特別にホールを解放したんだそうです。


ホワイトハウスに招待꙳

留学から帰国後、マリアンはアメリカでツアーを行いました。ルーズベルト大統領夫妻からホワイトハウスでの歌唱を依頼され、このためホワイトハウスで接待を受けます。アフリカ系アメリカ人としてホワイトハウスで接待を受けたのは、マリアンが初めてのことだそうです。


メトロポリタン歌劇場での活躍꙳

1950年になると、もはやマリアンは外交的にも影響力を有し、メトロポリタン歌劇場(NY)でも初のアフリカ系アメリカ人ソリストになります。そしてその後親善大使になり、国連信託統治委員会のメンバーになりアフリカや南太平洋の国連信託統治領の人々に貢献したそうです。

꙳1965年、引退꙳

DCでは1960年代に、ケネディ大統領の就任式での国家斉唱や、大統領勲章の受賞で戻って来たようです。最後はカーネギーホール(NY)で引退コンサートをしたようです。

ツアー内では、リンカーン記念堂コンサートの時に「マリアンが歌った後も、なぜリンカーン記念堂は『白人のみ』ルールを残したのか」みたいな質問が出ていて、サラッとこういう議題が出るあたりにアメリカらしさを感じました。

アメリカは歴史が浅い、日本は何千年も続く歴史と独自の精神性がクールだ」とアメリカの方に言っていただくことがありましたが、いろいろなルーツを持つ人が集まってぶつかり合ってできたアメリカの歴史は、短くたってめちゃくちゃ濃いじゃないか!!!と思う私です。

 

追記 2023年11月

この時の憧れが実り、友人とナッツクラッカーを見に行くことができました。オペラホールです。

本当に素敵な時間だった…いつか子供達とも行きたいです。

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